ピザ窯を作ってみたい

ピザ窯を作ってみたい。

荒川弘さんの『銀の匙』の中で、廃棄されていた石窯を修理し、学校内でとれた肉や野菜を使ってピザを焼く場面があるんだけど、出来上がったピザが本当に美味しそうなんだ。

石窯

それ以来、ピザ窯を作って、ピザを焼いてみたいという妄想に駆られていたんですが、ひょんなことからチャンスが巡って来ました。

ちょっと気を抜くと押し寄せる雑草に簡単に侵略されてしまう裏庭に、(活用方法の一つとして)ピザ窯を作るのはどうだろう、って奥さんが言い出したんです。

おー、これ幸いと、さっそくその意見に乗りました。

で、先ずはピザ窯について調べてみることに。

構造的に2つに大別される

ピザ窯(石窯)は、先ずは構造の違いで、1層式と2層式とに分類されます。

一層式のピザ窯は、薪や炭を燃やす燃焼室と調理する場所とが同じ場所になっているシンプルな構造で、「単燃焼タイプ」とも呼ばれます。

二層式の石窯は、薪や炭を燃やす燃焼室と調理する場所とが上下二層に分かれています。

ピザ窯

それぞれメリット、デメリットがあるのは当然。

1層式だと、薪や炭などを燃やして石窯内部の温度を上げてから、火かき棒でそれらの燃料をどかして(排除して)、調理するスペースを作る必要があります。

でも2層式なら、火元をそのままにして調理でき、石窯の温度が下がってくれば、再び薪や炭を焚くこともできるので、連続燃焼タイプと呼ばれます。

一方で、一層式の石窯は構造がシンプルで、小さいサイズで作ることが出来るので、耐火レンガ等の材料も少なくて済み、比較的簡単に作ることができます。

また、炉のサイズも小さいので、炉の温度を簡単に上げることが出来、結果的に調理のときに使う薪や炭などの燃料も少なくて済むので経済的なんです。

ただ、炉のサイズが小さいということは、温度が下がるスピードも速く、追い炊きも出来ないので、調理できる時間が短くなってしまいます。

再び温度を上げるためには、一度調理をストップして再加熱しなければなりません。

2層式なら燃料をそのままにして調理することが出来、石窯の温度が下がってくれば、薪や炭などを追加して温度を維持することが出来るんです。

大人数でパーティーなどをやることを想定するなら、追い炊きすることで長い時間調理することが出来る2層式の方が適していそうです。

勿論、構造が複雑でサイズも大きくなるので、使用する材料も多く必要になり、窯の温度を上げるためには、より多くの薪や炭などの燃料が必要になるというデメリットがあります。

ピザ

石窯では食材を火で直接焼くのではなく、余熱で焼く

ところで、1層式のピザ窯では、「石窯内部の温度を上げたら、火かき棒で薪や炭などの燃料をどかして」って書きましたが、石窯では食材を火で直接焼くのではないんですね。

燃料を燃やすことによって熱せられた石窯内部の耐火レンガの “余熱” で焼くんです。石窯の最大の魅力は、この余熱というか、余熱に含まれる遠赤外線にあるんです。

薪などで加熱された石窯(耐火レンガ)は、遠赤外線を放出します。食材の外側は対流熱によりパリッと焼かれ、同時に食材の内部は遠赤外線によって熱せられます。

その結果、外側はパリッと香ばしく、内側は必要以上に水分を失うことなくしっとりと調理される、ってことのようです。

なるほどねー。ま、理屈は知らなくても美味しいものは美味しいんだけど、個人的には理屈を知ったら、ますますピザ窯を作ってみたくなりました。

構造的には、やっぱり2層式を作ってみたいな。

あとは形状。ピザ窯の形状にはドーム型、アーチ型(かまぼこ型)、スクエア型(箱型)などがあるようです。

熱の “効率” を考えると、ドーム型>アーチ型>スクエア型の順になるようですが、作る際の難易度的には逆の順番になります。

ま、ここは一番シンプルな箱型でいきましょう。

次回、設計に入ります。


荒川 弘 著 『銀の匙』第12巻 -- あの山越えたら何がある?

荒川 弘 著 『銀の匙』、面白いなあ。単行本が出るのを毎回楽しみにしていますが、今回も発売されたばかりの第12巻を息子が買ってきたので、さっそく拝借して読みました。

銀の匙12巻農業とは全く縁のないサラリーマン家庭に育った八軒勇吾が、北海道の大蝦夷農業高校(エゾノー)に入学するところから始まる学園マンガです。

今回は3回目の紹介になりますが、最初に紹介したときには、作中に出てくる食べ物(or 食材)が「もの凄く美味しそう!」って感じられるのが、個人的にはポイント高いなーって話を。

2回目の紹介は、第11巻の中でヒロインの御影アキが言ったこんな言葉に触発されて書きました。

「なんかね、今は無理でも、
      これもそのうち跳べるようになると思うんだ」

今は無理だけど、成長していけば跳べるようになる日が「いつか必ず」来る、って。

第11巻の大きなテーマが「成長」だとすると、第12巻のテーマは「夢」なのかもしれません。

あの山越えたら何があると思う?

八軒は学生起業を画策している真っ最中。そんな八軒のことを、友人の駒場一郎(いっちゃん)とアキが(山に囲まれた牧場で)話すシーンがあります。

「次から次へと未知の世界に踏み込んでって怖くねーのか」って、いっちゃんの呟きに対して、アキがこんなことを言います。

「いっちゃんさ、あの山越えたら何があると思う?」

「・・・・・山だべ」

「私ねぇ、小さいころ あの山越えたら大都会があると思ってたんだよ! ギラギラの!

で、お小遣い握りしめて一人でてっぺんまで登ったことがあるの。
当然、山越えても次の山があるだけで、がっかりして帰ってきて親にこっぴどく叱られて。

んで、今度はこっちの山に登って、またその先が山でがっかりして。
さらに次はあっちの山で・・・・・

そんな事くり返してるうちに、『どうせどの山もむこう側に何も無いんだろう』って・・・・・

いつの間にか山のむこうに何があるか自分の目で確かめなくなっちゃったよね

なるほどなー、そうだよなー、って。

人の夢を否定しない人間に、俺はなりたい

いつの間にか、すべてを悟ったような気になって、自分で登ることをしないばかりか、人にも「山の向こうには、同じような山しかないから無駄だよ」って引き止めて。

自分の足で登ってみて初めて見える景色があるのも事実だし、一方で山の向こうにある景色を(敢えて)見ることなく生きる人生もあるでしょう。

それはその人の価値観なんで。

本巻の中で八軒はこんな言葉を発します。

「人の夢を否定しない人間に、俺はなりたい」

自分の夢を人に語るのって、なんかこっ恥ずかしいですよね。「夢なんか持ってるんだ」ってからかわれたり、「夢なんて実現しないよ」って否定されるのが、本能的に(経験的に?)分かってるからなのかもしれません。

私自身、ここ数カ月、いろんな友人知人に自分の「夢」を話す場面をたくさん持ちましたが、想像以上というか、感覚的には9割の人の第一声は「否定」でした。

言葉にしてみると、「こんなのダメだよ!」ってのが多かったかな。

「夢」とは未来に向けての “展望” だと思うので、「今はこれ」だけど、「将来的にはこんなのを目指して」という話をしている積りなんだけど、みんな簡単に「こんなのダメだよ!」って言うんだなー。

自分の中にも人の夢に対して、そんな言葉を発してしまうような気持ちがあるのは分かっているので、まあお互い様だしねって感覚もありで、特に気にはならないけれど。

でもやっぱり、できれば人の夢を “後押し” できるような人でありたいなって思います。

八軒の言葉を借りて言うと、

人の夢を否定せず、人の夢を後押しできる人間に、私はなりたい

なんてね。


ジム・ドノヴァン著 「望みの人生を実現する、単純だけれど重要なこと」

久しぶりに “成功哲学系” の本を紹介しましょう。ジム・ドノヴァン著 「望みの人生を実現する、単純だけれど重要なこと」。

望みの人生を実現する中身的にはとてもオーソドックスな内容で、これ系の本を読めば、至る所に同じような記述を見つけることができると思います。

その意味では、新しい発見を期待出来るような本ではないと思います。ただ・・・・・

同じようなことを以前にも書いていると思いますが、ある本を手にして、買って、そして読むというのは、その本との「出会い」なんだと思います。

ブックオフで、たまたま背表紙の題名に魅かれて手に取ってみた。そこに一つの出会いが生じるわけです。

自分が “探していた” 言葉に出会った時

私の大好きな北村薫さんの「ターン」の中で、主人公の森真希さんが図書館に、ある本を借りに出かける場面があります。そして、その本を本棚に見つけて言うんです。

「待っていたのよ、わたしを」

って。

「図書館の棚に探している本を見つけた時って、よく、そう思う。だって、不特定多数のくるところでしょう。誰に連れ去られたって不思議はない。それなのに、ちゃんといてくれたんだもの」

私も同じような感覚を持ちます。ああ、私と出会うために、ここにいてくれたんだなって。

ただ、ある本を手に取ったからといって、必ずしもその本を買うわけではありませんよね。中身をざっと流し読みし、なんとなく魅かれるところがあって初めてレジに持っていくことになります。

その意味では、本との出会いというよりも、あるフレーズ、ある言葉との出会いなのかもしれません。

そして面白いなって思うのは、その時に自分が置かれている環境だったり、状況だったり、バックグラウンドだったり、要はその時の “心の状態” によって、同じ本を読んだとしても、「出会う」フレーズや言葉は異なってくるということ。

多分、自分が “探していた言葉” を見つけた時、心が動くのだと思います。

今回紹介する本と出会ったのはもう随分と昔のことです。そして、何年かの時が過ぎ、私自身の状況が変わった今、ページを繰ってみると、入って来る言葉が違ったり、同じ言葉でもその受け止め方が変わったなってのをリアルに感じながら読みました。

毎晩、明日の遠足を楽しみにしながら眠りにつく小学生のよう生きたい

ロック歌手のブルース・スプリングスティーンが、ステージの上で思わず叫んだそうです。

「こんなに楽しい思いをしてお金がもらえるなんて信じられないよ!」

どうしたら「人生の目的」が見つけられるか? その答えは、スプリングスティーンのこの言葉の中にありそうです。

自分がごく自然にできること、先ずはそれを見つけてみましょうか。その時、次の3つの質問を自分に投げかけてみると、自分の情熱の対象を見つけやすいかもしれません。
  • 昔からずっと得意だったことはなんだろう?
  • ただ楽しいからしていることはなんだろう?
  • お金は関係なかったらなにをしているだろう?
最近、私自身の “情熱の対象” を見つけたような気がしています。私の場合は逆になりましたが、「これが私の人生の目的」なのかもってことを見つけてから、この3つの質問を自分に問うてみると、どの質問の答えにも当てはまるんです。

ただ、現実的に考えると、3番目の質問の答えがあったとしても、ではそれに向かって突進していけるかというと、「難しい」と言わざるを得ないのではないでしょうか。

以前、この本を読んだ時は、「なるほど、言いたい事は分かるし、正しい道なのかもしれないけど、現実的にはどうなのよ?」って疑問を強く感じていました。

今の私はどうなのか?

正直に言えば、相変わらず疑問符は残ります。「これで食っていけるのか?」ってね。ただ一つ言えるのは、それに向かおうとすることに、自分の “心” が喜んでいるってこと。

大げさに言えば、私の “魂” が喜んでいるってこと。くだけて言えば、ワクワクドキドキしてるってこと。もっと分かりやすく言うと、「毎日が楽しい!」ってことかな。

「こんな風に生きていきたい」って、私の願望の中での大きな一つに、夜、ベッドに入って眠りにつく時、「明日はこんなことをしたい」って、ワクワクしながら眠りたいってのがあります。

毎晩、明日の遠足を楽しみにしながら眠りにつく小学生のように、ね。

自分の「人生の目的」を見つけるってことは、「ああ、そういうことなのか」って、自分で見つけてみて初めて分かったんです。

こういうことは本で読んだからって、“知識” として分かったとしても、“感情” として理解するには、自分で体験してみるしかないですからね。

もしも本当に、「これが私の人生の目的だ!」って確信が持てたとしたなら、それはもう「お金には関係なく」突き進むしかないじゃないですか。

人生で大切なのは、「思い込み」なのかもしれない

「あなたが夢見る人生を思い描いてみよう」という記述があります。例えば、
  • どんな人間関係を望んでいるのか?
  • 自分の健康については? 
  • キャリアやお金には?
  • どんなことを経験してみたいか?
  • 何を手に入れたい?
  • 何になりたい?
こういった質問に、時間をかけてじっくり考え、思い浮かぶことを紙に書いていくのです。あなたが、あなたの人生で手に入れたいモノやコトです。いわゆる「目標」ですね。

「目標を持てば、それを達成したときの気分や、夢が実現した人生の姿を想像するだけで興奮できるはずです」なんて記述があります。

これも、私自身の過去の経験で言えば、「想像するだけで興奮」することはありませんでした。なぜなら、その「想像」にリアリティが無かったからです。

リアリティと言うか、自分がその夢を実現できるという “確信” が無かったということです。確信の無い夢に興奮できるほど私の想像力は豊かではありません。

そして、「私が夢見る人生」を思い描いたものが、以前に紹介した「理想の一日」です。

この記事の中でも書いたことですが、以前は、こういうことを想像しようとしても、自分でもなんとなくウソっぽくて、現実感も無く、従ってディテールなんてかけらも無かったのに、今回は “リアル” に思い描くことができました。

じゃあ、以前の私と、今の私と何が違うのかといえば、(まあ、年をとったとか、少しは成長した?とかありますが)基本的には何も変わっていません。

違うのは、“夢” に対して “確信” を持っているってことだけ。でも、その “確信” が何かに裏付けされているかいうと、そんなものは何も無くて、単なる思い込みに過ぎません。

でも、思い込みだろうと何だろうと、「できる」って思わなければ人は行動しないわけですから、人生で一番大切なのは「思い込み」なのかもしれません。

『銀の匙』のヒロイン御影アキが言ったようにね。

「今は無理でも、そのうち跳べるようになると思う。きっと、ぜったい」


荒川 弘 著 『銀の匙』 第11巻 -- 今は無理でも、いつか絶対

2014年の一番最初のブックレビューとして荒川 弘 著 『銀の匙』を紹介しましたが、その第11巻が発売されたのを読んだら、私の琴線に触れるようなフレーズがあったので、再びのご紹介。

(余談ですが、「琴線に触れる」は「きんせんにふれる」で、本来の意味は「感動や共鳴を与えること」。文化庁の調査では約1/3の人が「怒りを買ってしまうこと」と間違って理解してるそうです)

いよいよ青春マンガの王道である “成長” が顔を出してきたかな

銀の匙11巻さて、『銀の匙』第11巻。本の中でも3月になり、登場人物それぞれが自分なりの旅立ちの時を迎えようとしています。

表紙の八軒勇吾も高校2年生になろうとしていますが、最初の頃に比べると随分と成長した顔になっています。

前回紹介したとおり、個人的には出て来る食べ物が(素材も料理も)「もの凄く美味しそう!」ってのが一番の印象だったのですが、高校入学から1年が経過し、登場人物たちも様々な形で “成長” をしていきます(王道ですね)。

第11巻は、八軒勇吾のその成長ぶりが話の主題になっていますが、勉強ダメダメだったヒロインの御影アキも少しずつ、そして着実に成長しています。

そんな御影アキの言葉から紹介していきたいと思います。

世界レベルのバーの高さを皆で見ながら

八軒勇吾も御影アキも馬術部に入っているのですが、ある日、障害で飛び越えるバーを「世界レベルのバーってどれ位の高さ?」ってことでセッティングしてみるのですが、その高さに驚きます。

アキは子供の頃、初めて競技を見た時、大きい馬が自分の頭より高いところを跳んでいくのを見て衝撃を受け、そこから一気に障害馬術に引き込まれたんです。

そんなアキが、こんな話をします。

「でもその時は、自分の身長より高いバーを跳べるなんてちっとも思ってなくて、馬かっこいいなー、くらいで。
ところが今はその1mオーバーの障害をぽんぽん跳べるようになってるワケでしょ?」

そして、「世界レベルのバー」を見ながらこんな言葉を言います。

「なんかね、今は無理でも、これもそのうち跳べるようになると思うんだ」

そして力強く続けます。

「きっと、絶対」

(私もアキと同じく)なんかね、(うまい言葉が思い浮かばないけど)人の “成長” って、すべてこの言葉に集約されてくるような気がするんです。

「今は出来ない。でも、いつかきっと出来るようになる日が必ず来る筈だ!」って。

もう何十年も前に初めて自転車に乗った時、全然乗れなくて。その時、こんな言葉を心の中で思った筈もないけど、でも気持ちは間違いなくこれだった筈なんです。

自分で「なりたい!」「なれる!」って思う人だけが、そうなれるんです

「いつか必ず出来るようになる」という思いが(意識している、いないに関わらず)あるから、人はそのことに挑戦するわけです。

逆に言えば、その「思い(確信)」が無い人に、その挑戦はあり得ないんです。挑戦することを諦めた人たち。これが「夢」を失うということです。

「いつかそうなりたい」とか「必ずそうなれる筈だ」って思いが無ければ、人はそれに挑もうとはしないでしょう。最初から負けを認めている試合に挑む人はいないんです。

なぜなら、そこには “痛み” があるから。

やる前から “負け” が分かっているなら、“痛み” を避けたいと思うのは普通の感情ですよね。

でもね、“やる前” に「自分は負ける」「自分には出来ない」と思っていたとしても、実際には多くの場合、“やった後” に初めて結果がわかるんです。「やってみなけりゃ分からない」ことが大多数。

これまでに何度も紹介しているヘンリー・フォードの名言、

『あなたが「できる」と思おうと「できない」と思おうとどちらも正しい』

って、この事を言ってるんだと思うんです。

「できる」と思うから挑戦し、その結果として「できる」ようになる。「できない」と思う人は、最初から挑戦することが無い訳ですから、「できない」ままの状態でい続けます。

結局、「人生の違いは、考え方の違い」なんですね。

人生という学校は、どこ耕してもいい宝の畑だ!

おまけ。

進路指導で相談する八軒に、担任の先生はこんなことを言います。

学校ってのはさ八軒、おまえらのためにある畑なんだよ。
そりゃ規則があって窮屈なところもあるけど、どこ耕してもいい宝の畑だ。
頭で学ぶも良し。
胃袋で学ぶも良し。
筋肉で学ぶも良し。
機械から学ぶも良し。
動物から学ぶも良し。
人から学ぶも良し・・・・・
そういう人たちとのつながりを作るのに丸々3年費やしても良し。
どこを耕すかは自由だ。

なるほどなー、って。

「学校」を「人生」に、「八軒」を「自分の名前」に置き換えてみましょう。

人生も同じですね。



荒川 弘 著 『銀の匙』

年明けに荒川 弘 著 『銀の匙』の第10巻が発売されたので、今年のブックレビューはこのマンガからスタートしましょう。

銀の匙10マンガを読み始めるきっかけはいつも決まっていて、子供の読んでいるのを何かの拍子に手に取ってみたら、それが面白くてハマってしまった、というのが大概のパターン。

『うさぎドロップ』『BLEACH』『Bakuman』も同じ流れ。

でも今回の『銀の匙』は、子供から「これ面白いから、是非読むべし」と、いつもとは違うパターンで読み始めたのですが、正直、最初の頃は「うん? これ、面白いのか?」って。

北海道の大蝦夷農業高校(エゾノー)を舞台とした学園マンガ。進学校として名高い中学出身の八軒勇吾が、激しい学力競争に敗れ、中学の担任に薦められたエゾノーに入学するところから物語は始まります。

『鋼の錬金術師』の作者でもある荒川 弘さんのマンガなので、間違いなく面白いんだろうなとは思っていましたが、ちょっと想像してたのとは違う方向に面白くて。

究極の料理「卵かけご飯」がたまらん!

このマンガの面白さはどこにあるのか? もちろん色んな側面がある訳だけど、個人的には出て来る食べ物が「もの凄く美味しそう!」ってのは外せないなー。

農業とは縁のないサラリーマン家庭に育った八軒が、鶏の卵がウン○と一緒の肛門から産まれてくることを知って衝撃を受けるシーンがあります。

その後、寮の食堂で出された朝食に生卵があって、周りのみんなが普通に食べる中、八軒だけ食べられず、隣の同級生にあげてしまいます。

その日の夜、強風で壊れてしまった温室の修理に駆りだされる生徒達。作業が終わり、空腹の彼らの前に先生が持って来てくれたのは、炊き立てのご飯とタクアンと “生卵”。

頭の中に渦巻くイメージと空腹感との間で葛藤し、最後は死ぬ気(大げさ)で食べてみたら、これが「超!!!うめぇぇぇぇぇ!!」わけです。

料理マンガに出てくる料理って、なかなか自分の舌でイメージできなくて

料理マンガというのはずいぶん昔からあって、鮮烈に記憶に残っている『包丁人味平』なんて、もう40年も前の作品なんですね。この分野で超有名な『美味しんぼ』は、30年前に連載が開始され、いまだに連載中っていうんですから本当に驚き。

最近のだと『食戟のソーマ』が面白い(これも子供が買ってきたのを横取りしてハマった)。

でも、考えてみると、料理マンガの中に出て来る料理を「美味しそうだな」とか「食べたいな」って思った記憶があまり無いんですよね。

もちろん、「食」を題材としたストーリーには面白さを感じるわけですが、そこに登場する料理って、大概が私の想像の範疇を超えているというか、“舌で” イメージ出来ないって感じかな。

でも、この『銀の匙』(料理マンガではないけれど)に登場する料理(というか食材)の味は、容易にイメージできるんです。先の「卵かけご飯」なんて、その最たるもの。

本当に美味いもの食べた時って、笑いしか出ないんだな!

ピザ宅配圏外(?)に居住するほとんどの学生の要望で、ただ一人「ちゃんとしたピザの味を知っている」八軒が、みんんなのためにピザを焼くことになります。

材料は、小麦粉も肉も野菜もチーズも、すべてエゾノー産。野菜なんてとれたて。これを校内にあった石窯で焼いていくのですから、美味くないわけがありません。

焼き上がったピザを前に不安そうな面々。毒見で先ず一口食べてみた八軒の口からは、「ふへへへへへへ」とか「ははははははは」って、笑いしか出てきません。

そして一斉に食べ始めたみんなの口からも「うひはははははは」って笑いが。

「本当に美味いもの食べた時って、笑いしか出ないんだな!」

すごく納得。美味しい食べ物って、人を幸せにするんですよね。そして、そこには(自分が育てた)「美味しい物を人に食べてもらう時のわくわく顔」もあるんです。作る側も幸せ。

食べるために育てている豚は、ペットじゃないんだから

一方で重いテーマも出てきます。“食べる” ために牛や豚を育てるという難しいテーマに、こんなに正面から取り組んだマンガや小説に、これまで出会った事がありませんでした。

サラリーマン家庭に育った八軒が、生まれたての子豚の可愛さに名前をつけようとすると、農家育ちの級友たちから「名前つけちゃダメだよ! ペットじゃないんだから!」って言われます。

それでも一匹のブタに “豚丼” って名前をつけますが、肉用として出荷する日が近づく “豚丼” をどうするか、自分なりの答えを見つけられずに悩む八軒。

そんな八軒の悩む姿を見て、農家育ちの級友たちの間にも様々な議論が起こって。

一人の先生は、こんな事を言います。

「価値観が凝り固まっている群れに、八軒のようなある種の異物が混ざる事によって、普段やらないようなディスカッションが起こっている。価値観の違う物が混ざれば群れは進化する」

そして八軒が出した答えは・・・・・。

つき立てのおもちが食べたい

第10巻には年の瀬、そしてお正月のシーンがあります。

家に帰りたくない八軒は、学校の寮に一人残りますが、そこに先生たちがいろんな料理の材料を持って集まって来ます。大晦日のお楽しみ会の始まりです。

校長先生が石臼で挽いた自家製ソバを持ってくると、それを他の先生方が持ってきたエゾノー産の大根おろしや、とろろ、ねぎなどと一緒に食べるんです。

夜中に読んでいたら、もう無性にソバが食べたくなって。マンガを読んでいてこんな風に感じるなんて、初めてのことかもしれません。

そして元日はもちつき大会です。つき立てのおもちを、これまたエゾノー産の小豆あん、きなこ粉、大根おろしなどで食べるのですが、もうたまりません。

最近は、一個づつパックされた切りもちしか食べていませんが、あのつき立てのおもちの美味しさは、何十年経った今でも鮮明に思い出す事ができます。


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