あなたに使われないまま死んでいくたくさんの才能が

プロテニスプレイヤーの錦織圭選手、全仏オープンで大活躍ですね。

ユニクロのCMだったかな、錦織選手が笑顔で楽しそうにテニスをプレーしている映像があって、なんか本当に楽しそうに、普通の人には出来ないようなことを軽々とやってるんですよね。

まるで、「テニスの王子様」の越前リョーマみたいなプレー(分かる人には分かる?)。

見ていて思ったのは、あんなに自由自在に自分の思い通りにボールが操れたら、それは楽しいだろうなってこと。テニスに限らず、そういうことってありますよね。

出来なかったことが出来るようになるというのは、人生の中でも後々の記憶に残っていく本当に嬉しい瞬間。そしてそれが、回りの人には出来ないようなレベルまでいけたなら、これはもう・・・・・

誰にでも出来ることを、誰にも出来ないくらいやる

先日、伊勢佐木町のイベントで「馬車道ジャズフェスティバル」を見に行ったら、人ってこんなレベルまで到達できるんだって、本当に驚くほど演奏技術の素晴らしいギタリストに出会いました。

ギタリスト

松井祐貴さんというギタリストの方ですが、この人の演奏を見ていて、やっぱり同じようなことを感じました。あー、本当に楽しそうだな、って。

良く耳にする言葉ですが、「誰にでも出来ることを、誰にも出来ないくらいやる」ってのがあります。回りの人よりも抜きん出るために必要なのは、誰にも “出来ないこと” をやることではないよって。

テニスやギター演奏が「誰にでも出来ること」って話じゃなくて、要は小さなことの積み重ねってこと。テニスプレーの動作の一つ一つ、ギター演奏の指の使い方の一つ一つ。これを練習に練習を重ねて洗練させていくこと。

何かを習得するための “練習” ってのは、誰にでもできるけど、その練習の頻度とか深度とかを「誰にも出来ないくらいやる」ってことでしょうね。

何であろうと上手ければ上手いほど楽しい! もちろん人生も

その内に紹介したいなって思ってる最近はまってるマンガがあります。古舘春一さんの「ハイキュー!!」ってマンガなんだけど、その中に一人(自称?)根性無しの選手がいます。

高校バレーを題材にしたマンガで、他のメンバーがみんな素晴らしい活躍をして輝いている中で、一人だけ取り残されている1年生の山口忠くん。

この彼が言うんです。

「俺も あいつらみたいに 自分の身体を操りたい!! ボールを操りたい!! 
強い奴らと対等に戦いたい・・・!!」

もちろん、錦織選手や松井祐貴さんとは次元の違う話だけど、この気持ちもまた良く分かります。だって、テニスだろうが、ギターだろうが、カラオケだろうが、上手ければ上手いほど楽しいから。

そして、根性無しの彼がそう自覚した時から成長が始まるんです。自分は今いる場所で “満足” って思っている限り、そこに成長の余地はありませんよね。

人生も同じかな。自分の人生は自分の責任なんだって自覚したときから、そして自分の人生を自分の思い通りに生きたい、そのために努力するんだって決めた瞬間から成長が始まるんでしょうね。

人生に操られるんじゃなくて、自分が人生を操るんだって。

操り人形

あなたに使って欲しかったのに、今日あなたと一緒に使われないまま死んでいく

山口瞳さんの長編小説「けっぱり先生」に登場する主人公の宮川が、新聞記者の仕事を辞めて学校の先生になりたいと猪俣校長に訴えかける場面があります。彼はこんなことを言います。

「私はレースに参加したいと思ったのです。人生のレースに・・・・・。」

沿道に立って、自分の人生が流れて行くのを見ているだけの “傍観者” から、人生というレースの “参加者” になりたいんだって。

私も含め多くの人は、「いやいや、自分は自分の人生を操ってるよ」って思っているかもしれません。でも、「自分の人生の主人公は自分だ!」って胸を張って言えるかというと、私は・・・・・

このところ何度か紹介している「サクセス・ウィズアウト・リミット」の登壇者の一人、レス・ブラウン氏の話の中に印象に残った言葉がありました。

「あなたが死ぬ時、あなたの死の床を取り囲むたくさんの姿が現れます。あなたの夢や才能が、あなたに使って欲しかったのに、今日あなたと一緒に使われないまま死んでしまうんです」

表に出してあげないと、使ってあげないと、努力してみないと、自分でも気がつかないたくさんの夢や才能が、私やあなたの中に眠ってるんです。早く見つけてくれって願いながら。

隅々まで探してあげたいな。


嫌々な気分が、さらに嫌なことを引き寄せる、ってのはあるな

「サクセス・ウィズアウト・リミット」というセミナーイベントで、外国人登壇者の一人が後日に開催した個別セミナーに参加してきたんだけど、中身のシェアをする前に前振りを、という前回の続き。

CDを聞いているうちに、気分は暗黒の闇へとまっしぐら

前回、予習用の13枚セットのCDをジョギングしながら聞いてという話をしましたが、このCDの中身を聞いているうちに辛くなってきたんですよねー、これが。

ビジネス系のセミナーなので、まあ、ある程度は予想してましたが、予想以上に「戦いに勝つ」とか「競争に生き残る」といった方向に傾いていたんです。

「孫子に学ぶ」みたいなCDもあり、孫子の兵法をお手本に、どういう戦略、戦術で相手を打ち負かすかみたいな感じなんです。

セミナーCD

講師はカナダ出身で、世界7カ国で数十の会社を設立し、フォーブス、BBCなど多くのTVやラジオ番組に出演し、自身のTV番組も持つという、もう本当に世界トップクラスのビジネスコーチ。

なので、当然と言えば当然なのでしょうが、聞きながら「これは、生きる世界が違うな、私には出来ないな」って、心が疲れてきたんです。

要は、お金を払い込んじゃったけど、気分は「行きたくない気持ちでいっぱい」って感じ。キャンセルすると50,000円も取られるので、キャンセルするのももったいないし。

先ずはこれが、この先に起こる出来事に絡んでくる伏線その1。

「会場未定」 → 「会場決定」 → 「会場変更」

時間は前後しますが、「サクセス・ウィズアウト・リミット」の会場でこの個別セミナーに申し込んだ時、(開催時期まで2週間しかないのに)開催場所は未だ決まっていませんとのことでした。

そして、開催前10日くらいのところで、「開催場所は有明の東京ビッグサイト近くの○○ホテルです」とのメールが届きました。送信元は、日本でこのセミナーをアシストする立場の会社。

主催は、あくまで海外の(講師の方が所有している)コーチング会社で、日本の会社は請け負い仕事として会場の選定や出席者への連絡をするという役割(だったとは、後で知ったこと)。

その数日後(開催1週間前)、今度はメールと電話連絡とで、日本のセッティング会社から連絡がありました。開催場所が変わって日本武道館近くの竹橋で行うとのことでした。

期日が近いのに「会場未定」 → 「会場決定」 → そして、「会場変更」というのが伏線の2つ目。

そして、もう一度「会場変更」

そして問題のメールが届いたのは、開催日の3日前。英文で、どうやら現地のコーチング会社から出席者宛に直接送ってきたようです。

セミナーの開催日時や開催場所を改めて出席者に連絡してきた、といった内容のメール。

サラッと読んで、特に深い注意は払いませんでした。単に日本語と英語の違いだけで、開催日時も、開催場所も既に知ってた情報だったので(と、その時は思ったんです)。

問題は開催場所の「所在地」でした。実は、前に貰った日本語のメールと、後から貰った英文のメールで、会場のビルの名前は同じなんだけど、場所が違っていたんです(チェーン店って言えばいいのかな)。

なので、最初に英文メールをサラッと見たときには、その違いに気が付かなかったんです。「ああ、○○ビルだよな」って。

で、開催日の前日の夜、セミナーの開催に関しては最新の情報である英文メールを、確認のために改めて見ていたら、「あれっ、ビルの場所が竹橋から品川に変わってる」って気が付きました。

「おっと、見落とさなくて良かった!」って思いながら、でも、場所が変更になっているのに、日本の会社からは何の連絡も無く、現地からの英文メールだけって、不親切だなーって。

「これ、見落としていたら大変だったじゃん。もしかしたら何人かは場所を間違えちゃうんじゃね?」って思いながら ・・・ 一抹の不安が。本当に英文メールの案内の方が正しいのかな?って。

とは言っても、既に夜中。問い合わせることも出来ず、奥さんと相談(2人で出席予定だったので)して、「いや間違いない、品川だよね」って決着しました。

上で書いたとおり、気分はブルー。行きたくない、でも行かざるを得ない。

会場(だと思ってた場所)に着いたら、掲示板にはセミナーの “セ” の字も無い

翌日、久しぶりに早起きして、電車を乗り継いで品川の会場に向かいました。当然、ブルーな気分は色合いも深みも増しながらね。

会場に指定されたビルに着いてみたら、そんなセミナーの開催予定はありませんでした。

この時点でまだ朝の8時過ぎ。人影疎らな品川の会場で係りの人を何とか見つけて、もう一方の竹橋の会場に連絡して貰うも、どうやら9時過ぎでないと向こうの係りの人間が出勤してこないと。

日本側のセミナーのアシスト会社に連絡するも、どうやら土日はお休みのようで通じず。

結局、セミナーの開始時間を過ぎた9時過ぎに、ようやく竹橋の方の会場でセミナーが開催されているとの確認が取れ、品川から竹橋に移動。気分はブル-から濃い灰色に。

科学技術館

セミナー会場の入り口で揉めました。こちらは怒り心頭。「どういうことなんだ、これはっ!」ってね。向こうは平身低頭。「手違いで申し訳ありません」と。

どうやら日本の会社は、現地から出席者宛てにメールが送られていたのを知らなかったようです。そして、そのメールの中身が間違っていたのが、今回のトラブルのすべて。

現地の会社にもその場から連絡を取ってもらい、なんだかんだ30分くらい会場に入らずに揉めていましたが、先方からのオファーに(渋々)納得して、結局2日間のセミナーに参加してきました。

トラブルの責任は先方にあるけど、私にも落ち度はあったな

まあ、事実だけを見ると先方に全ての責任があると思いますが、でもそれをこちらの対応で避けられなかったかと言えば、そんなことはなく、その意味では私にも落ち度があります。

一番は、やっぱり「行きたくない」というネガティブな気持ちでしょうね。こういう気持ちが、このような事態を “引き寄せた” ってことなのかなと。

何も神秘的なことを言ってるのではなく、これが心から楽しみにしていたもの(例えば好きな歌手のコンサートとか)だったら、英文メールを貰った時点で隅から隅まで確認し、そして場所が変わっているのに気が付いたら、その場で確認をしていたと思います。

実際問題、(手遅れだったけど)前日の夜に会場が変わっていることに気が付いて、「でも、本当にこれが正しいのかな?」って疑念を持ったくらいですから。

ただし、短期間の内に「会場未定 → 会場決定 → 会場変更」といった流れがあったので、ここにもう一度「会場変更」が加わってもそれほど不自然に感じなかったのも事実ですけど。

でも、やっぱり私にも大いに反省すべき点はありますよね。今後に活かしていこう!

ところで今回のトラブルで一番驚いたのは、セミナーの出席者が四十数名いたんだけど、間違った会場の方に行ったのは、我々含め僅か数名だったこと。

そして、誰一人として日本側の会社に、事前に「これこれのメールが来てるんだけど」って問い合わせをした人がいなかったこと(いたら、会社側も事前に分かって対応してた筈)。

もちろん、英文メールは出席者全員に送られて来ていたんですよ。これって、どういう解釈をしたらいいんでしょ? ほとんどの人が英文メールを見落としてた? 無視した? 気にもしなかった?

誰にも確認していないので真実は分からないけど、これって結構興味深い謎だなー。


地上10cmの平均台が、地上100mにあると信じ込んでしまうと

5月上旬に東京ビッグサイトで開催された「サクセス・ウィズアウト・リミット」というセミナーイベントに参加したのですが、そこで登壇された多くの方が、更に深くつっこんだセミナーを色々と開催していて、その個別セミナーの売り込みという側面も多分にあったように思います。

海外からの講演者の方々も例外ではなく、数週間後、数ヵ月後に日本でこれこれのセミナーを開催しますから、是非とも参加してみませんか、って。

そのどれもが、結構いい値段なんだな! なので、そんな気はさらさら無かったんだけど、その中の一つについ興味を持ってしまったんですね。

その場でしか申し込めないので結構迷いましたが、結局申し込みました。

我が家にとってはかなり痛い出費なんですが、停滞している現状を何とかしなくちゃって焦りがあり、そのきっかけになってくれればと一大決心(ちょっと大げさ?)したわけです。

ってことで、セミナーの中身を皆さんとシェア出来ればと思っているのですが、まだ自分の中で消化し切れていない部分もあり、少し整理した後でないとちょっと無理っぽい。

なので、前振りの意味も含め、セミナーに絡んで起こったちょっとした出来事を書いてみようかな。

体のどこかに変な力が入ってたんでしょうね

会場でセミナーに申し込んだ特典として、事前勉強用のCDを頂いたんですが、家に帰って中身を見たら、これがなんと13枚セット。時間にして合計14時間弱の大作。

申し込みからセミナー開催まで丸2週間。毎日1枚ずつ聞いていけばいいかと思いながらも、最初の一週間は予想通り(?)サボりました。

直前の1週間で毎日2時間ずつ聞かなければならないはめに。それならジョギングしながら聞けばいいかと、CDの中身をスマホに取り込み、そして2時間のジョギングが日課に。

ランニングしながら

実は、ここ一ヶ月ほど足の調子が悪くて、痛いまではいかないまでも違和感があるって感じで、どうもスッキリとした走りが出来ないでいました。

なので、ゆったりしたスピードとしても毎日2時間を1週間も続けるのは無理かなって危惧してました。ところが、実際に走ってみると7日間の間に足に違和感を感じたことは一度も無かったんです。

これは、想像するに、意識の問題なのかなって。

足の調子が悪いから頑張らないように走ろうと思っても、ついつい頑張っちゃったり、あるいは変な意識が足に知らない内に微妙な負担をかけていたんじゃないかと。

それが、「走ること」が目的ではなく、「CD音声を聞く」ことが目的になった途端、意識(の焦点)が “足” から離れて “耳” に移行した結果のような気がします。

視点を変える、意識の焦点を変える

これまでも走りながらオーディオブックを聞いていましたが、それでも主体はやっぱり「走ること」だったんですよね。それが今回は主体が「聞くこと」で、「走ること」は付帯事項になったんです。

だから何なのよ?って言われてしまいそうですが、うーん、なんて言えばいいのかな、人の “意識” って凄いなって思うんです。

(無意識も含めた)意識が、人の心も体もコントロールしてるんだなって改めて実感。

地上10cmのところにある平均台を渡っていくのは難しくありません。その同じ平均台が地上100mにあるとしたら、大概の人は渡れなくなってしまうでしょう。

足を踏み外したら死ぬという意識が、体を萎縮させ、筋肉を緊張させ、そして実際に平均台から落ちる可能性を何倍にも拡大してしまいます。

高所

意識したことが現実になるんです。実際には、その平均台が地上10cmのところにあったとしても、地上100mなんだって意識してしまえば、その意識の方が優先されますよね。

日常生活においても同じ。何か行動を起こそうとした時、その行動によって引き起こされるかもしれない結果が恐いって意識した途端、体は萎縮し、心はしぼみ、そして1歩を踏み出せなくなり・・・

何度か「視点を変える」という話を書いてきましたが、それって例えば「半分入ったグラスを見て、半分しか残ってないって思うのか、半分も残ってるって思うのか」みたいに捉えていたんだけど、そうか、こういう「視点を変える」ってのもあるんだなって。

「走ること」に向けていた意識を「聞くこと」に変えたように。そして、いつもは恐怖の対象になってしまう平均台に向けてしまう意識を、目線を上げて渡っていく先の目標地点に向けるように変える。

ここで書いた通り、夢を実現したい理由の中心には “自分” がいると思います。 “自分” が~したい、“自分” が~になりたいって。いわゆる、For Me ですよね。

でも、自分のためではなく「誰か他の人のために」といった大義名分を持つことが出来たとすれば、その「自分が、自分が」という意識から離れることが出来るかもしれません。

これも「視点を変える」ってことになりますよね。

(うーむ、書き出したときに想定していた到着地点とは違うところに着いてしまった)



サクセス・ウィズアウト・リミット(5) -- 子どもたちに “見せる” 責任

金持ちになりたい。成功したい。でも、それは何のため? 何のために金持ちになりたいのか、何のために成功したいのか。

その “理由” の中に “自分” しかいないとすれば、もしかしたらその “理由” は弱いのかもしれない。多くの行動や大きな努力という “苦痛” を乗り越えるほどには強くないのかもしれない。

そんな前回のお話の続き。

あなたは、大学教育を受けられる村人の中の唯一の人?

「サクセス・ウィズアウト・リミット」の登壇者の一人にクリス岡崎さんという方がいました。アンソニー・ロビンズの日本人一番弟子だそうです。

彼が「世界が100人の村だったら」という話を始めました。有名な話なので、細部は忘れているとしても「大枠の話は知ってる」って人が多いのではないでしょうか。

世界には63億人の人がいるんだけど、もしそれを100人の村に縮めてみると、何が見えてきますかってお話。一部だけ抜粋してみましょう。

村に住む人びとの100人のうち、

20人は栄養がじゅうぶんではなく、1人は死にそうなほどです。
でも15人は太り過ぎです。

75人は食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがあります。
でも、あとの25人はそうではありません。
17人は、きれいで安全な水を飲めません。

銀行に預金があり、財布にお金があり、家のどこかに小銭が転がっている人は
いちばん豊かな8人のうちの1人です。
自分の車をもっている人は7人のうちの1人です。

村人のうち、1人が大学教育を受け、2人がコンピューターをもっています。
けれど、14人は文字が読めません。

もしもあなたが、いやがらせや逮捕や拷問や死を恐れずに、信仰や信条、
良心に従ってなにかをし、ものが言えるなら、そうではない48人より恵まれています。

もしもあなたが、空爆や襲撃や地雷による殺戮や武装集団のレイプや拉致に
おびえていなければ、そうでない20人より恵まれています。

さて、日本に住んでいるあなたはどうですか。栄養は十分ですか。もしかしたら「太り過ぎ」の一員ですか。きれいで安全な水を飲んでますか。家のどこかに小銭が転がってますか。

大学教育を受けられる村人の中の唯一の人ですか、あるいはコンピューターを持っている2人の内の一人ですか。

今が辛くて、大人になっても辛いのなら、この先も生きていく・・・

先日、我が家の三男が財布を落としました。まあ、写真ほど大金は入っていなかったようですが、免許証とか保険証とかクレジットカードとか、失くすと悪用も含めてすぐにも困るようなものばかり。

財布

さすがに東京の街中で失くして出てくることはないだろうと諦めていたのですが、取り敢えず警察には届出を出しておいたら、なんと見つかったんです。誰かが拾って警察に届けてくれたようです。

これって、凄くないですか。日本人ってやっぱり凄いなって本当に感動してしまいました。

もちろん、日本でも日々多くの犯罪が起こっているけれど、空爆やレイプや拉致に怯える世界とは対極にいるって言っても、それほど間違いではないでしょう。

クリス岡崎さんが「世界が100人の村だったら」の話に続けて言ったのは、「“自分” のために豊かになりたいとか、自由になりたいなって言うなよ」って。

もう日本人は十分に豊かだし自由なんだから、と。

“自分” が金持ちになりたい、“自分” が成功したいって、なんか小さくないかい、って。自分だけのこと、自分のためだけに生きているって、人として生まれてきて寂しくないかい、って。

こんな話もしてくれました。クリス岡崎さんの息子さんが(確か)中学生の時、友人である同級生に学校(だったかな?)の屋上に呼び出されたそうです。

そこでその友人は、これから屋上から飛び降りて自殺するので見ていてくれって言ったそうです。一人で死んでいくのは寂しいので、飛び降りるまで一緒にいて見届けてくれって。

友人の彼は、こんなことを言ったそうです。

「今、いろいろとあって辛いんだ。でも、それは我慢できる。人生の一時期に辛いことがあるのは分かるから。でも、回りの大人を見ても、みんな辛そうにしてるんだ。

仕事が嫌だ嫌だって言いながら、でも働かなくちゃいけなくて、全然楽しそうじゃない。今が辛くて、大人になっても辛いのなら、この先も生きていく理由が見つからない」って。

そして彼は、息子さんの見ている前で屋上から飛び降りて自殺したんです。

幸せに生きるのは、大人の責任

クリス岡崎さんは、後で息子からこの話を聞いて、もう本当に怒りを抑えられなかったそうです。子供たちに人生を楽しく生きてるって姿を見せられていない “大人” に。

幸せに生きるのは、大人の責任。生きてるって楽しいって顔をして生きるんだ。

そういう姿を子供たちに見せられていないから、大人が格好悪いから、子供たちが明るい将来を想像できずに、夢を語ることをやめ、そして自殺していくんだって。

このシリーズの初回でも触れましたが、日本での1年間の自殺者数は(厚生労働省が公表している3万人とかではなくて)少なくとも11万人くらいはいるんじゃないかと推測されるそうです。

これって、もの凄い数字です。5分に1人、日本国内で自らの命を絶っている人がいるんです。5分に1人ですよ。1時間に12人。毎日毎日300人もの人が自殺でこの世を去っているんです。

年11万人の自殺者
電車で通勤通学をしている人は、「~で人身事故があった影響で、電車が遅れて運行されています」って車内アナウンスを聞く機会は少なくないでしょう。

もう、そんなアナウンスを聞くのが日常になっているので、それを聞いても特に大きな感慨をもつこともありませんよね。「あー、またか」って。

自分にとってのリアリティがないってのもあるのでしょうが、感覚が麻痺してるのかもしれません。それは、自分とは関係のないところで起こっている事だって。

でも、そうではなくて、やっぱり私たち大人全員の連帯責任なんだと思うんです。

満員電車にギュウギュウに押し込められて、隣の奴がウザいとか、会社に行ったらまた会議だよとか、それはもう苦虫を潰したような顔をする理由はいくらでもあるでしょう。

でも、「この先にはこんな明るい未来が待っているんだ」ってことなら、どうですか? 「そこにたどり着くために毎日こんな通勤電車に乗ってるんだ」ってことなら、どうですか?

心に余裕が生まれ、そして表情が緩み、もしかしたら笑顔がこぼれるかもしれません。逆に言えば、未来に夢も希望もなければ、それはやっぱり暗い顔をするしかないんです。

「こんな明るい未来」って何かと言えば、それが “夢” です。

ってことは、夢を持って生きる、あるいは目的って言葉でもいいと思いますが、達成すべき(達成したい)目的や目標を持って毎日を楽しく生きるってことは大人の責任なんだと思います。

自分の夢に大義名分を持たせる

なんかグルッと回って元に戻ってきたら、自分でもうまい言葉というか表現が見つからないって感じなんだけど、自分が夢を持つってことは、それだけで他の人のためにもなるってこと。

夢って言うと、どうしても「私は、私は」って感じになっちゃうけど、そうだとしても、その夢の実現に向けて行動することは他の人のためでもあるんだ、大人の責任なんだって意識するだけでも、そこにある種の大義名分が生まれてくるんじゃないかと。

うーん、どうだろ? うまく伝え切れていないような気がしますが。

夢の根元にあるのは for ME なんだけど、そこには for YOU も含まれているってことを “自分が” 認識することが大事なんじゃないかな。

上で大義名分という言葉を使いましたが、ある意味、自分の行動にとっての “力” になると思うんです。原動力というか。

前回の、「そこまでして、その夢を手に入れたくはない」という壁を乗り越えていくための大きな力になってくれるんじゃないかと。WANT から MUST に近づくみたいなところでしょうか。

うーむ、まだ上手く伝わっていないかもしれませんが、一旦終わります。


サクセス・ウィズアウト・リミット(4) -- に、触発されて?

少し間が開きましたが、5月8、9日と東京ビッグサイトで開催された「サクセス・ウィズアウト・リミット」(SUCCESS WITHOUT LIMITS)の前回の続き・・・とは、ちょっと違うかな。

今回は、ここ数日、私の頭の中を駆け巡っていること、みたいな感じ。

このイベントのメインゲストは、ニック・ブイチチ(NICK VUJICIC)という(もう本当に素晴らしい)講演家の方です。彼には、両手と両足が生まれつきありません。

What do you want? And WHY?

彼の話はまたじっくりとしたいと思いますが、2日目の最後の登壇者として登場した彼が話の中で繰り返し言っていた言葉があります。それは、

Who are you?
What do you want?
And WHY?

最初の Who are you? というのはとても奥の深い質問なんですが、取り敢えずここでは置いておいて2つ目の質問、What do you want? は、文字通り「あなたの欲しいものは何?」。

「欲しいもの」というのは、ここでは “夢” という一言に置き換えてみましょう。

あなたが実現したい夢は何ですか? どんなものが欲しいですか? どんな人生を送りたいですか? どんな人になりたいですか? ま、こんな感じかな。

そして、問題は3つ目の質問である “WHY” です。あなたは “なぜ” 、その夢を実現したいのか?  “なぜ” 、それを手に入れたいのか?  “なぜ” 成功したいのか?

なぜ? なぜ? なぜ?

why

もしかしたら、シンプルにお金持ちになりたいからとか、だって気持ちがよさそうじゃんとか、あるいは人に認められたいからなんてのもあるかもしれません。

でも、その答えは、あなたの “なぜ” の本当に答えですか?

“そこまでして” 欲しくない

よく、お金持ちになりたいとか、成功者になりたいとか、出世したいとか、みんな言いますよね。でも、そのためには何が必要か?少なくとも、「欲しい!」って言ってるだけでは手に入りません。

どうしても必要なのは、圧倒的な “行動” とか、もの凄い “努力” とかでしょうか。

そしてみんな言うんです。

「少しくらいの行動とか、ちょっとした努力ならしてもいいけど、 “そこまでして” 欲しくない」って。

なぜなら、今もそんなに不幸じゃないし、自分の人生に不満が無い訳じゃないけど、まあそこそこ幸せだし、自分の何かを変えなければいけないのなら、「今のままでいいや」ってね。

うーん、なんて言えばいいのかな? ここに “WHY” の本当の答えは無いと思うんです。表面的な、上っ面の、あるいは見せかけの答えだから、“そこまでして” ってのに負けちゃうんです。

自分の心のどこかにある筈の本当の答え。

私たちは生かされている?

今回のイベントの登壇者の一人でもある池松耕次さんは、セミナーなどで参加者によくこんなことを言います。

「右手を広げて、その手のひらを左胸に当てて下さい。あなたの心臓は動いていますか?そう、動いていますよね。では、その心臓を5秒でいいから止めてみて下さい・・・もちろん出来ませんよね。

自分の意思で心臓を止めることは出来ないんです。でも、この会場にいる人に等しく、そして必ず訪れるって断言できる唯一のことは、いつかはこの心臓が動きを止める時が来るということ。

自分で止めることは出来ない。そして、自分で動かし続けることも出来ない。ってことは、この自分の命というのは、自分で生きているのではなく、 “生かされている” ってことじゃないのか。

生かされているのであれば、『何のために生かされているのか?』を考えてみようよ」

鼓動

何のために自分はこの世に生を受けてきたのか。自分の存在意義とは何なのか。一つの言葉で言ってしまうと、自分の “使命” は何なのか。

自分から始まり、外に向かう?

何も大げさなことを言っているんじゃないんです。地球上から戦争を無くすのが私の使命だとか、地球の温暖化を防ぐためにこの世に生きているんだ、なんてことじゃないんです。

自分が生まれる前よりも、少しでも自分の回りの世界を良くしてこの世を去りたい。「自分の回り」ってのが、例えば自分の家族といった小さな世界でもOK。

少なくとも、スタート地点は自分とか家族なわけです。それがチームとか仲間に広がり、そして会社であるとか、その先の社会であるとか、そんな感じで(広がる人は)広がっていけばいいんです。

でも、その範囲がどれほど小さな範囲だとしても、(自分からスタートして、でも自分だけで終わらず)自分の “外側” に良い影響を及ぼすってことが必要なんじゃないかな。

なんか、自分が金持ちになる、自分が成功する、自分が何かを手に入れる・・・・・これと、使命感といった言葉が持つイメージとは相容れませんよね。

すべて for ME ですから。

最初のニック・ブイチチの質問に戻りますね。

What do you want?
And WHY?

あなたの欲しいものはなんですか? そして、なぜそれが欲しいのですか?

“なぜ” に対する答えの中心に “自分” がいる限り、もしかしたらその答えは “そこまでして” ってのに負けちゃうんじゃないのかな。

いや、もちろん答えの中心に自分はいるんだけど、それが自分で終わらずに、そこから外に向かう必要があるってこと。言ってみれば、for YOU ってこと。

なんかねえ、こういうことを言ったり書いたりしていると、自分のことが偽善者のように感じてしまうんだけど、これは偽善ではなくて、結局は「自分に返ってくる」ってことを、次回続けたいと思います。


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