小林正観著 「この世の悩みがゼロになる」 -- それが当たり前?

小林正観さんの著作、「この世の悩みがゼロになる」のご紹介の続き。

このお皿を使う人の幸せを祈りながら配る

現在、岡山県にあるノートルダム清心学園の理事長をされている渡辺和子さんという方がいます。この渡辺さん、9歳の時に二・二六事件に遭遇してるんです。

遭遇どころか、父親の居間にいたところ、当時教育総監だった父親が青年将校に目の前で襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを目のあたりにしたそうです。

なんてこととは関係ありませんが(いや、もしかしたらあるのか?)、渡辺さんは20代後半にアメリカの修道会に10年ほど入っていたことがありました。

その修道会にいたときのこと。食事の準備で食卓にお皿を配っていた渡辺さんに、あるシスターが寄ってきて、こう尋ねたそうです。

「渡辺さん、あなたは今、何を考えながらお皿を配っていますか?」

渡辺さんは戸惑いつつ、「いえ、何も考えていません」と答えました。

すると、シスターは、

「渡辺さん、あなたは時間を無駄にしています。なぜ、このお皿を使う人の幸せを祈りながら配らないのですか。この世に『雑用』という仕事はないのですよ」

と教えてくれたというのです。

念を込める手段として日常のすべてがある?

私たちは、生きていくために仕事をし、子供を育て、炊事、洗濯、掃除をします。私たちの毎日は「ねばならない」ことのかたまりです。「MUST」に追われて生きるのが人生のように思います。

掃除

「この食事をする人が元気になってくれるように。この服を着る人が幸せになってくれるように。この階段を歩く人が笑顔で過ごせるように。この仕事に関わる人がみな幸せになってくれるように」

「ねばならない」仕事に、そんな願いを込めたなら、それは単なる雑用でもなく、単なる作業でも単なる仕事でもなくなるのかもしれません。

試しに私自身、夜の食事の後片付けで皿洗いを手伝うとき、「このお皿で食事をする人が幸せになりますように」って思いながら洗ってみると・・・・・

不思議なことに自然と笑顔で皿洗いをしている私がいました。

心のどこかにあった「手伝ってあげるんだ」って気持ちが、こんな風に思いながら皿洗いをすることで、なんか心が「やわらかく」なっているような気がしました。

お風呂の掃除をするときも、「このお風呂に入る人が幸せになりますように」って。

この世に「雑用」という仕事はなく、「元気」や「幸せ」を祈る、念を込める手段として日常のすべてが存在しているのかもしれません。

世の中のことは思い通りにならなくて当たり前

話は変わりますが、アフリカでチンパンジーやオランウータンを生け捕りしようとするとき、どういう罠を使うか知ってますか?

チンパンジー

チンパンジーやオランウータンがちょうど手を入れられるくらいの木のウロ(空洞)の中に、彼らが好むバナナや木の実を入れておくのです。

何も持っていない手は穴に入るけれど、木の実を掴んだ手(彼らは一度つかんだ獲物を決して手放しません)は穴から抜けずに、簡単に生け捕りにされてしまうのです。

これが「執着」ってやつです。

私たちは、縛られているわけではなく、捕らわれているわけでもないのに、実は自らが何かをつかんで放そうとしないでいるのです。

放しさえすればよいのです。放せば私たちは自由になれる、その執着から放たれることができるのです。

「執着」とは何でしょうか?

正観さんは、執着というのは「こうでなきゃイヤだ」「どうしてもこうなってほしい」と思うことだと。

それに対して、楽しむ人は、「そうなってほしい」は同じなのですが、「そうなるとうれしいなあ」「そうなると楽しいなあ」「そうなると幸せだなあ」と思います。

「こうでなきゃイヤだ」と思ったとき、それが執着になるというわけです。前回の言葉を借りると、「勝つぞ」「闘うぞ」「上位に入るぞ」という意識の強い人ってことなのかもしれません。

そして、「こうでなきゃイヤだ」と思ったときは15%の力しか出ませんが、「こうなるとうれしい、楽しい、幸せ」と思ったときは、85%の潜在能力が助けてくれるんだと。

「こうでなきゃイヤだ」って思ったとき、そうなって当たり前だから、ならないと「マイナス」だし、なっても「ゼロ」なんですよね。

でも、「こうなるとうれしい」って思うと、そうならなくても「ゼロ」だし、そうなると「プラス」に感じるんです。これ、ほんの少しの考え方の違いなのに、未来に受け取るものはまったく異なります。

世の中のことは思い通りにならなくて当たり前。何の疑義を挟む余地もなく、そうですよね。

この「当たり前」という考え方ですが、例えば天気で言うなら「雨」が当たり前と思うと「曇り」でも嬉しい。「晴れ」ならすごく嬉しくなります。

「世の中のことは思い通りにならなくて当たり前」って心から思えてくると、ちょっといいことがあったり、何かが思い通りになったり、願いや望みが叶ったときは、ただただ嬉しいだけ。

思い通りにならなくて当たり前なんだから、後は喜びが上乗せされるだけ。「今日は楽しかった」「今日も嬉しいことがあった」という日しか来なくなります。

「毎度毎度、同じようなことを書いているような気がするけど」と、前回と同じまとめ方になっちゃうけど、これもまた真実なんですよね。

要は、「どこを見るか」ってこと。半分しか残っていないグラスなのか、それとも半分残ってるグラスなのか。


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