「子どもが学校に行かなくなったら赤飯をたきなさい!」 -- その2

不登校の子供達を受け入れてくれる師友塾の塾長である大越俊夫先生の講演会の話と、著書である「子どもが学校に行かなくなったら赤飯をたきなさい!」を紹介する2回目。

水面でプカプカやっている何百匹ものフナたちに「怠けてないで泳げ!」って言う?

初めて大越先生の話を聞いたときに、非常に印象に残っている話があります。

「あなたがジャングルを歩いていると、池のほとりに来ました。ちょっと見はキレイな池なのに、その池の表面には今にも死にそうなフナたちが何百匹も水面でプカプカやっている。

あるいは、野原にいったら、飛ぶことが出来ずに地面でパタパタやっているたくさんの蝶を見たとき、あなたはどう考えますか。

一匹づつフナや蝶に向かって、『がんばれ。怠けてないで泳ぐんだ、飛ぶんだ!』って言いますか。

飛べない理由、泳げない理由を、あなたはどう考えるだろう。決して浮いたフナや飛べない蝶に根性がないからとか、甘えているからだとは考えないよね。原因は、水質汚染だったり、大気汚染だって考えるでしょ。

この池の水や森の空気が学校や社会で、フナや蝶は君たちだ。だから君たちは、自分のわがままや非力で不登校をしている、学校をやめたと自分を責める必要はない。むしろ息苦しさを感じないで、もっと元気よく泳げる別の池や森を探すことの方がずっと大切だよ」

汚染

これだけ不登校の子どもたちが多いということは、大越先生の話も十分に納得できるなーって、当時気持ちが軽くなった記憶があります。

因みに今調べてみたら、平成25年度の小学生と中学生で、不登校を理由とする長期欠席者の数は全国で12万人とのこと。

もちろん、「だから不登校でもいい」というわけでは決してありません。でも、私もやっぱり不登校に対して、「根性がない」とか「だらしがない」、あるいは「現実逃避して甘えている」といった感覚が無くはなかったので、新たな捉え方(選択肢)を得た思いでした。

学校に行けない子どもは池に浮いた魚であり、彼らはその鋭敏な感性のアンテナによって、いまの学校や社会に蔓延しているひずみや矛盾や病理をするどく察知しているのかもしれません。

その結果が不登校という形に表れているといった考え方も出来るのでしょう。

学校に行きたくない子どもが学校をやめるのは当たり前?

カナダには「不登校」という言葉がないそうです。言葉がないということは、不登校という概念が存在していないということ、すなわちカナダでは「学校に行かない子」がいないのではなく、それ自体が問題視されていないということなのです。

つまり、学校に行きたくない子どもが学校をやめるのは当たり前だという考え方が、カナダ社会には浸透しているということです。

仮に不登校や中退が挫折体験だとしても、若いときの挫折ならむしろ好ましい、それは成長の必須プロセスだと考える人が少なくないそうです。

さらには不登校生を、既成のコースや価値観に疑問を感じ、「これでほんとうにいいのだろうか」と立ち止まって考える能力に富んだ子どもだと、その素質の高さを評価する教育者すら多いとのこと。

スクールバス

こういった考え方は、カナダに限らずアメリカやヨーロッパでも社会に浸透していますが、残念ながら日本の社会では不登校生、中退というのは、いまだに学歴社会、競争社会の「迷子」であり、そこで生き抜く条件としては致命傷とみなされがちです。

だから不登校生を持つ親は、うちの子は何故学校に行かないのかと悩み、なんとか学校に戻すべく(まるで浮いた魚を無理やり水中に押し込めるように)躍起になるのですね。

そして、不登校生本人の心の苦しみや葛藤 --- 人並みのコースから外れてしまった挫折感や敗北感や孤立感。親の期待に応えたいのにそれができない申し訳なさ。学校へ行こうとしても、どうしてもいけない辛さ、無力感等々 --- を見落としてしまうのです。

これは難しい問題です。私も昔の人間なので、「学校に普通に行くのが当たり前」の感覚で育ってきましたから、理解の範疇を超えているというか・・・・・

言ってみれば、「その歳の子」の親をやるのも(長男の時は)初めてな訳で、ましてや不登校となると、さらに初めての体験な訳ですから、どうしても本人の苦しみよりは、親としての不安とか苦労に意識がいってしまってました。

でも、「不登校生本人の苦しみ」と言われれば、なるほど、そうは見えなかったとしても苦しんでいたんだなあと、「後から考えれば」理解できるように思えます。

長男がたまに学校に行ったりしたのも、この苦悩(学校に行かなければならない)の表れだったのでしょうか。

問題解決を先送りにしているに過ぎない

ダメな親だったなって自覚はありますが、渦中にいた時は周りが良く見えなかったり、あるいは私自身が逃げていたってのも少なからずあったように思います。

大越先生は、大人の(特に父親の)役割についても言及しています。

親の役割

「こどもの不登校の問題にしても、よほど悪化してからでないと子どもときちんと対峙しない父親がいます。そうでなければ、物分りのいい親を演じる。

不登校の子どもが自主的に動くのを待ったほうがいい、そんな専門家の意見をうのみにして、子どもが何をしようが何をしまいが、何も言わないような親もいます。

こういった親は、ただ子どもを遠巻きにして問題解決を先送りにしているに過ぎない場合が多い」

一言もありません。

こういう物分りのよさの裏側にあるものを子どもは、実に鋭く見抜きます。

「誰かからの聞きかじりや本の受け売りばかり言っているようで、理解されているというようりもウソっぽい気がした」

本音では学校に行って欲しいのに、それを隠して人の意見で代用する。物分りのよさを演じる。そんな親に子どもは「本気」を感じられずに、二重の失望を感じてしまう。

本気で自分と向かい合わないような親を信用せよ、尊敬しろといっても、これは無理な話と大越先生は言います。

再び、一言もありません。

もう少し続きます。


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