自分の背中を見せて教育できるような真剣な生き方をしてますか

我が家の長男が不登校になったのは、もう十数年も前の小学6年生の時でした。

当時、右往左往している(親がね)中で出会ったのが、不登校の子供達を受け入れてくれる師友塾と、その塾長である大越先生でした。

前回、子どもを遠巻きにして問題解決を先送りにしたり(私のことです)、本気で子どもと向き合わないような親(再び、私のことです)を信用せよ、尊敬しろといっても、これは無理でしょって話で終わりましたが、今回は親も含め大人側の話。

なぜ生きるのか、人生とは何かといった大きな話を聞きたかった

塾生の一人がこんなことを言います。

「なぜ生きるのか、人生とは何かといった大きな話を聞きたかったし、学びたかったのに、学校にはまるでそんなものはなかった。周囲の大人にも全然なかった。それで大人に失望しました。

ぼくは教育というものは根本に哲学があって欲しいんです。哲学というのは『なぜ』と問うことから始まると思う。なぜ学校に行くのか、なぜ制服を着るのか、なぜ大学にいくのか、突き詰めれば、なぜ生きて行くのかということです。

でも、その答えはもちろん、それを聞ける雰囲気さえ学校にはない。学校に順応することばかり教えて、考える能力をつぶしてしまっている」

この質問に正面から答えることの出来る大人は、それほど多くはないのではって思います。少なくとも、私には明快な「答え」がありません。

哲学?

「親を親とも、先生を先生とも思わない」。いまの子どもに関してこんな大人の嘆きをよく耳にしますが、彼らは大人を尊敬しないのではなく、したいのにできないでいる、とも言っています。

言い換えれば、大人を拒否しつつも尊敬できる大人を探している。つまり、「子どもは大人を尊敬したがっている」ということです。

いい年をした大人でさえも、どこかに私を導いてくれる「メンター」はいないだろうかと、常に心のどこかで探しているんじゃないかなって思うので、この気持ちは分かるような気がします。

子どもは親に、キチンと正面から向き合って欲しい

同様に、子どもは親に叱られたいと望んでいると大越先生は指摘します。ものの道理、ことの是非、社会のルールをきちんと説いて、ダメなことはダメ、いけないことはいけないと親に諭してもらいたい。間違っていることは間違っていると真剣に叱ってもらいたい、ということです。

子どもは本気で話そうとしない親の「逃げ」を見逃しません。逆にどんなに意見が対立しても、言い争いになっても、親が逃げずに根気よく説明すれば、子どもは必ず何らかの形で納得するもの。

なぜなら本気の口論や喧嘩は濃厚なコミュニケーションの一つだからです。父親の役割は子どもに「理」を説いてやることなんだ、と。

行きたくないから学校をやめたい、やめてもなんとかなる --- 子どもがそんな安易さに流れないよう釘をさし、いまの社会で学歴を捨ててしまうことが現実にどんなに大変なことが、世間はそれをどう見るか、どう扱うか。それを子どもに教えてあげる。

「行け」という頭ごなしでもなく、「行かなくてもいいよ」という建前の寛容さでもなく、いまの社会の仕組みでは学歴がないと苦労するよ、辛い目にあうよ、それはキミ本人が背負わなくてはいけない責任だよと、社会の現状や世間の常識をきちんと解説してやるのが親父の役割。

これを書きながら、スタジオジブリの「耳をすませば」の1シーンを思い出していました。

高校受験を控えた大事な時に、勉強そっちのけで物語を書くことに全力を傾ける雫。そんな彼女に、お父さんが雫の行動を(しぶしぶ)認めながら、こんなことを言います。

「でもな、人と違う生き方はそれなりにしんどいぞ」

もの凄く印象に残っているシーンなんです。この会話の裏にある父娘それぞれの “覚悟” を推し量った時、そこにあるのは生きることに対して真摯に向き合っているってことじゃないかな。

自分の人生を生きる

心配なのは子供たちではなく、彼らを育てる大人が心配?

少し前に、NPO法人アジアチャイルドサポート代表理事である池間哲郎さんの講演会の話を紹介しましたが、主催者の一人が最後に言った言葉が胸に突き刺さります。

「あなたは、自分の可能性を信じて、夢の実現に向かって真剣に生きていますか」

続けて、「あなたは、子供たちに自分の背中を見せて、教育できるような真剣な生き方をしていますか」って我々に問いかけるのですが、目線を落とす自分がいました。

「心配なのは、貧しいアジアの子どもたちではなく、この豊かな日本という国に暮らしている、日本の子供たちなんだ」って言葉も紹介しましたが、これは、子どもたち自身がどうだこうだではなく、「真剣に生きていない親の下で成長していく」子供たちが心配なんだ、ってことだったんだなって。

「教育というものは根本に哲学があって欲しい」という塾生の発言に触れましたが、真剣な生き方をしていないところに “哲学” (それが何であれ)が生まれることはないでしょう。

そんな大人は、子どもの訴えをはなから門前払いしたり、とにかく自分の価値観を押し付けたり、あるいは無関心だったり、理解のあるふりをしたり・・・・・するしかないのかもしれません。

結果、「ああ、何を言っても無駄だ」って、子どもは口を閉ざし心を閉ざしてしまうのでしょう。


因みに、結局うちの長男は師友塾には行きませんでした。「なぜ嫌?」って聞くと、「あそこは不登校の子が行くところで、俺は不登校ではない」って言ってました。

うーむ、状況としては立派な(?)不登校生だったのに、本人的には認めたくなかったのかな?


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