羽海野チカ 著「3月のライオン」 第10巻 -- やるべきことをやる

羽海野チカ さんの「3月のライオン」、第10巻が出版されたのが昨年の12月。それからもう半年も経つのに、次の巻が出てこない。楽しみにしてるのに。

そもそも、連載開始から7年ちょいでコミックスの方は第10巻という非常に遅いスピードで進行していますからね。1巻出るのに8~9ヶ月かかっている計算になります。

3月のライオン10まだかなー、まだかなー、次は夏の終わり頃かなって思いながら第10巻を読み返していたら、ありました、名言が。

将棋の世界を舞台にしたマンガで、主人公は中学生でプロ棋士になり神童と呼ばれる少年桐山零くん。

零くんは小学生の時に交通事故で両親と妹を亡くし、実父の友人でプロ棋士である幸田家に内弟子として引き取られます。

中学卒業後に幸田家を出て一人暮らしを始めるまで、幸田家の長女と長男(同年代)と一緒に暮らすのですが、この2人との確執が色々とあって。

単純な話だ。簡単な答えだった。

第10巻の中で、幸田家を出てから数年振りに(初めて?)幸田家を訪れます。たまたま(零くんがその時間帯を狙って訪問した?)長男と長女は家におらず、お母さんだけがいます。

そのお母さんが最初に考えてたのは、「この子が、私一人の時に来てくれた事にほっとしていた」ってこと。「香子(長女)と歩(長男)がいたら、一瞬でまたこの居間は凍りついていただろう」って。

そして、何年か振りに会って成長した零くんを見て思います。「歩むと同じ年? 信じられない。 うちの子はまだ変わらず子供のままなのに」

プロ棋士の子供として、長女も長男も(零くんが引き取られた頃)棋士を目指していました。そして、零くんには敵わないと将棋を諦めたんです(もちろん様々な葛藤を経て)。

そんな零くんを見ながら、お母さんは述懐します。

うちの子たちが彼にかなわないのは割と早い段階で気がついた。
   ---- 単純な話だ。 端目にもあきらかに練習量がケタ違いだったのだ。

それでも彼に負けたくないのなら彼より更に練習しないと始まらない。簡単な答えだった。
   ---- だがしかし出来るかと言えば出来なかったのだ。

そうなんですよね。全てのことがここに返ってきます。人生で何事かを成し遂げたい、オリンピックに出たい、松井祐貴さんのようにギターを演奏したい、錦織選手のようにテニスをプレーしたい・・・・・

そのために、どれだけ多くの時間をかけることができるのか。どれだけの多くの練習(行動)を行うことが出来るのか。人より抜きん出るためには、それだけの努力が必要です。

単純で簡単な話です。でも、「出来るかと言えば出来ない」って場合が大半なのでしょう。

夢を諦める、あるいは最初から夢なんて持たない理由は、それを手に入れるだけの努力を惜しまないという覚悟(自信?)を持てないから。

目の前にある幸せにすがりついてしまった?  by 22歳の別れ

零くんを預かったプロ棋士の幸田さんの持論は、「やる気を他人に出させてもらわないといけない人間は、どっちにしてもいずれ行き詰まる」というもの。

これは良く分かりますね。人に “やる気” を与えることは出来ないでしょう。いや、出来るのかもしれませんが、外からの刺激に頼っていたら、限界がやってくるのは自明の理。

歩くんがある日、「だって努力できるのも才能じゃん」と言い放った言葉に、幸田さんは「はは」っと寂しげに笑います。お母さんは、「あれが多分、あの人が『棋士』としての歩を見限った瞬間だったのだろう」と振り返っています。

歩くんは、「弱い自分を直視できず、手の届く楽しさに飲み込まれ」、そして “言い訳” に逃げたんです。言い訳を言ったところで The End です。

心理学に「快楽と痛みの原則」というものがあると教えてくれたのは、ジェームス・スキナーの著作 「成功の9ステップ」でした。これは、人間は常に「快楽」を得ようとし、「痛み」を避けようとしている、ということ。

「サクセス・ウィズアウト・リミット」の中で、登壇者の一人、池松耕次さんも同じような話をされていました。目の前に「問題」がある時、これと直面することは「痛み」です。

ってことは、問題から逃げることが「快楽」になるってこと。「僕には零くんのように努力する才能が無い」って逃げた歩くんのように。

でもねって、池松さん。この問題から目を逸らして逃げるのは “短期的” な快楽に過ぎないよって。だって、問題は無くなったのではなく、相変わらず目の前にあって、でもあなたが見ないようにしてるだけだから。

そして、問題から逃げたことが「長期的な痛み」へと発展していくんです。

一方で、問題と直面し、努力して解決することが出来れば、その時は痛みだったものが、今度は「長期的な快楽」へと変わっていきます。

この辺りのことは、みんな言われなくても分かってるんですよね。多分、これまでの人生の中でどちらも体験してきた筈だから。

それでも、目の前にある小さな「手の届く楽しさ」に手を伸ばすんです。

まさに、これの繰り返しで毎日を生きているという人は少なくないんじゃないかな。私なんか、その代表になれるかも。

「辿り着きたい場所」を持ってしまった人

お母さんの述懐は続きます。

正論を粛々と体現していく彼を前に、
     うちの子達は自分の弱さに心を乱し 粉々に崩れていった。

そう、「正論を粛々と体現していく」だけなんです。

(「粛々」って言葉、政治家の方が多用されて、どうも悪いイメージがありますが、意味としては「静か、厳か」というもの。私のイメージとしては、「回りの雑音なんか関係ない、私は私のやるべきことをやるだけ」みたいな感じかな)

この場合の「正論」というのは、「欲しいものがあるなら、それを手に入れるために出来ることはすべてやる」ってところでしょうか。少し前に書いた「誰にでも出来ることを、誰にも出来ないくらいやる」ってところに通じているような気がします。

なんか上手くいっていない人、頓挫しているプロジェクト、閑散としている飲食店、経営の思わしくない会社・・・・・。これの大半の原因は、「やるべきことをやる」ことが出来ていないことなのでは。

上で “単純” という言葉が出てきましたが、本当に単純なことのような気がします。

幸田家のお母さんは、こんな風に表現しています。

あの子を見ていて思い知らされたのは、
     「辿り着きたい場所」を持ってしまった人間というのは
        ここまで突き詰めないといけないのかという事だった。

「ここまで突き詰めないといけないのか」ってのは、「ここまで出来るものなのか」って意味合いなんだと思います。

どうしても「辿り着きたい場所」があるからこそ、「やるべきことをやる」ことが出来るのでしょう。

お母さんの、

「なりたいものになれる人間なんてほんの一握りの人だけなのだから」と 
「どうやったらなれるか」も考えずに来た私にとって
あの子の姿は胸にもやもやと重かった。

という思いは、私も含め多くの人の気持ちを代弁しているのではないでしょうか。


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