池田晶子著 「14歳の君へ-どう考えどう生きるか」

池田晶子著 「14歳の君へ-どう考えどう生きるか」のご紹介。

池田晶子さんは、ウィキペディアでは哲学者、文筆家と紹介されています。「容姿に優れアルバイトとして雑誌『JJ』の読者モデルを務めた」というのは、今回初めて知りました。

14歳の君へ本書を紹介するに当り、作者のことを少し調べてみたら、KAZEさんのブログ「風のたより」と出会いました。

そこで、2005年4月にガンで亡くなった作家・フリーライターの奥山貴宏さんのドキュメンタリー(NHK教育「ETV特集」)の内容について、池田晶子さんが週刊新潮のコラムで“批判した”ようで、それに関し様々な意見が交わされたことを知りました。

池田晶子さん自身も、その2年後にやはりガンで亡くなっています。

KAZEさんのブログから色々とリンクをたどっている内に、私自身あまりリアルに感じていなかった「死」ということについて考えていました。

「死」を受け止め、そして「生」を考える

本書の中に、こんな文章があります。

人間は、必ず死ぬ。年をとってから死ぬんじゃない。生きている限り、全ての人は必ず死ぬのだから、それは明日かもしれないし、今夜かもしれない。
(中略)
君はまだ、自分は死なないと何となく思っていないかな? でも、そんなことは絶対にない。

頭では理解していながらも、自分のこととしてリアルに捉えてはいない「死」。明日死んでしまう可能性は勿論ありながらも、それを真剣に考えている“健康な人”は、ほとんどいないのではないでしょうか。

「死なない」とは思っていないと思うけど、「年をとってから死ぬ」みたいに漠然と感じているような気がします。

でも考えてみれば、明日死ぬかもしれないし、ガンの告知を受けるかもしれません。「死」と面と向かうことの無い今の状態がずっと続くと思っているのは、何の根拠もない幻影に過ぎないという事実。

「この旅を終えるとき、あなたは何と答えますか?」なんてことを問いかけながら、それに自信を持って答えるための行動をしていないのは、他でもない私自身です。

もし、自分の人生が明日で終わると分かっていたら、今日の行動は間違いなく違うものになる筈ですよね。

もう一つ、「目黒被災」というブログにも出会いました。

ここで、読売新聞、1998年4月1日に池田さんが寄せた記事が紹介されているのですが、その中でこんな記述があります。

(地球人類は)この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。

なるほど、“長く生きる”こと自体に意味がある(幸せ)と思ってしまっている自分はいますね。生きることの本当の意味は、その“中身”にある筈なのに。

そんなことをつらつらと考えていました。

判断基準が自分の中になく、外に求めると

≪友愛≫

人に嫌われたくない、好かれたいと思うのは、人に認められたいと思うからだ。人に自分を認められたいと思うのは、自分で自分を認めていないからだ。

認めていない、認められない。つまり自分に自信がないからだ。自分に自信がないから、人に認められることで、はじめて自分を認められるように思うんだね。

だけど、そんな仕方で人に認められて、それが何だというんだい? 

本当の自分ではない、自分に自信がない人ほど、人に嫌われたくなくて、好かれようとするだろう。だけど、そんなふうにして人の気を引こうとしている人が、人にとって、どうして魅力的だろう。

自分の事を信じられない人の事を、どうして他の人が信じてくれたり、認めてくれたりするのでしょうかってことですね。

自分に自信の無い人は、他の人に“依存”することで自分のアイデンティティーを作り上げるのです。“あなた”が私のことを認めてくれないと、私は不幸になるってことです。

≪個性≫

他人の中に自分を見つけようとする人がいる。他人の中で自分らしいことが自分らしいことなんだとね。それが自己顕示欲という行動だ。他人に認められたい、他人に認められて、はじめて自分は自分になれると、そういう人は思ってしまう。

他人に認められなければ、自分を自分と認められないんだ。他人がいなければ、自分であることができないんだ。だとしたら、いったいどこが「自分らしい」ことなんだろう。他人の中に消えてしまって、その人の「自分」なんか、どこにもないじゃないか。

意見の相違とは、パラダイムの相違なんです

≪意見≫

たいていの人は、自分が思っていることは、自分が思っているのだから、正しいのだと思っている。だから、他人にあなたの言うことは正しくないと言われると、腹を立てるんだ。

そもそも、「正しいか正しくないか」の話し合いで、君が自分の思っていることを正しいと思っている根拠は何だろう。このことをまず考えてみよう。

すると、ほとんどは、ただ自分がそう思っているからだということに、気がつくはずだ。それはただの好き嫌いだったり、そうだからそうだと思っているだけだったり、いずれにせよ、ただ自分が思っているだけなんだ。

だけど、自分が思っていることだからそれは正しいなんて、こんな無茶なことはないよね。だって、他の人だって同じように、自分が思っていることだから正しいと思っているんだから。

あなたが正しいと思っていることは、あなたのパラダイムが作り上げたものなんです。100人の人がいれば、そこには100通りのパラダイムが存在します

そして、パラダイムには正しいも間違っているもないので、あなたの意見が正しくて、他の人の意見が間違っているってこともないのです。単なる意見の“相違”に過ぎません。

言霊ってことです

≪言葉≫「初めに言葉ありき」。これは聖書の言葉だ。言葉の奇跡に気がついた昔の人は、やっぱりそんなふうに言っている。「言葉は神であった」。つまり、言葉が世界を創ったんだとね。

言葉こそが世界を創っているということを理解できなくなっている現代人は、言葉は人間の道具であって、人間が言葉を使っているのだと思うことになる。

たぶん君も、言葉は自分が使うものだと思っているだろう。だから、大事な人には大事な言葉を選んで使うし、憎たらし人には傷つける言葉を使ったりするわけだ。

でも、君がそいういう言葉を選ぶことができるということは、言葉が人間の心を左右する力をもつ、言葉が人間を支配することができるということを、知っているからに他ならない。人間が言葉を支配しているのではなく、言葉が人間を支配しているということだ。

だから、もしも君が自分の人生を大事に生きたいと思うなら、言葉を大事に使うことだ。世界を創った言葉は人間を創るということを、よく自覚して生きることだ。

ここでも紹介しましたが、松本守正さんのブログのトップにある言葉です。

人はモノの捉え方、考え方、表現の仕方によって人格が決まる。

「表現の仕方」とは、言葉のことでしょう。どんな言葉を使うかで人格が決まり、そして人生が決まるのです。

先に紹介した読売新聞の記事にもこんな記述があります。

現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。

悲しいかな、同感です。

結局は、依存から脱却して自立することが必要なんです

これも同じく読売新聞の記事からの引用ですが、

自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きている。

詰まる所、すべてはこれなのかなって思います。自分の“中”にではなく、外にある何かに、自分の人生や幸せやアイデンティティーを求めている、あるいは頼っている。

結局、“哲学”なんて難しそうなものを持ち出してくるまでもなく、依存ではなく自立することが、自分の人生を自分でコントロールして生きる唯一の道なのでしょう。

そう言えば、冒頭に触れたNHKの番組も見ておらず、週刊新潮のコラムも読んではいない私には、どうこう言う資格もないのですが、この≪意見≫と≪言葉≫という二つの文章を読んだ時、この“議論”はどんな様相を呈していくのかなって、なんとなく感じたりしました。

いや、“哲学”って何なんだろうって、改めて考えたってのが正しい感想かな。


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